会津松平家歴代藩主・当主

初祖 保科 正之(ほしな まさゆき)1611 〜 1672
保科正之公
徳川家康の孫・二代将軍秀忠の子。母は後北条氏旧新神尾栄加の女お静「浄光院」。秀忠は、正室於江与の方「崇源院」を憚って子としなかった。幼児は武田信玄の女見正院に養われ、信濃国高遠藩から出羽山形藩主を経て、寛永二十年(1643)会津藩主となり、二十三万石を領し、幕領南山五万石を預かった。異母兄に当たる家光の遺命により、家綱を補佐し幕政に重きをなした。明暦の大火後の江戸復興に尽力し、江戸城の天守閣再建論を退けた。領内の治政では、社倉制や蝋・漆の生産奨励と専売制を進めた。また朱子学と神道を重視し、三部書と呼ばれる朱子学の書や「会津風土記」「会津神社志」などを編纂した。
二代藩主 保科 正経(ほしな まさつね)1646 〜 1681
保科正経公
正之の四男。寛文九年(1669)に藩主に就任し、十三年間在任した。父正之の死後、生前の希望通りに神式の葬儀を行い、磐梯山麓の美禄山に墓所を築き、土津霊神を祀る土津神社を造営した。また正之の編纂した書を幕府に献上した。三十六歳で死去するが、葬儀は仏式で行われ、院内廟所に葬られた。これ以後の歴代藩主の墓所は、みな院内御廟にある。
三代藩主 保科 正容(ほしな まさかた)1669 〜 1731
保科正容公
正之の六男。天和元年(1681)に藩主に就任し、五十一年の長きにわたって在任した。元禄九年(1696)に松平の称号と葵紋の使用を許された。正之同様、神道・朱子学に傾倒し、学問を通じては将軍綱吉との交流も深かった。嫡子正邦に、綱吉養女を婚嫁する約束もあったが、正邦が早世したため実現しなかった。正経が始めた薬草栽培を、庭園を備えた御薬園として整備した。
四代藩主 松平 容貞(まつだいら かたさだ)1724 〜 1750
松平容貞公
正容の八男。たび重なる兄の死去により嗣子となった。享保十六年(1731)に藩主に就任し、二十年間在任した。
五代藩主 松平 容頌(まつだいら かたのぶ)1744 〜 1805
松平容頌公
容貞の長子。寛延三年(1750)容貞死去により、七歳で藩主に就任し、以後六十二歳に至るまで五十六年間在任した。初期には、叔父容章が後見役を勤めた。家老田中玄宰をもちいて、農村の復興や殖産興業など様々な改革を実施した。藩校日新館を建立し、教科書となる「日新館童子訓」を編纂させた。また領内の本郷原で追鳥狩という軍事演習を初めて行った。
六代藩主 松平 容住(まつだいら かたおき)1778〜1805
松平容住公
松平容詮次男。容詮は、容頌の後見役を勤めた容章の子で、容頌の跡継ぎとされていたが死没したため、容住が嗣子となった。文化二年(1805)容頌が亡くなり、二十八歳で藩主に就任するが、わずか五ヶ月で死去した。
七代藩主 松平 容衆(まつだいら かたひろ)1803 〜 1822
松平容衆公
容住次男。父の急逝により、文化三年(1806)に四歳で藩主に就任した。在任期間は十七年就任後間もなく北方警備が命じられ、文化五年(1808)藩兵が蝦夷地へ出陣した。また同七年には江戸湾警備も命じられている。文政四年(1821)に将軍家斉の女元姫と婚儀が行われるが、元姫は半年ほどで亡くなり、翌年に容衆も死去した。容衆の治世に、「新編会津風土記」「家世実記」が完成し、いずれも幕府に献上された。
八代藩主 松平 容敬(まつだいら かたたか)1806 〜 1852
松平容敬公
容住の子として幕府に届けられたが、実は美濃国高須藩主松平義和の子として享和三年(1803)に生まれた。文政五年(1822)に藩主に就任し、三十一年間在任した。容衆の治世に大野原に移された追鳥狩を在国の年毎に実施するなど藩兵の軍事力の強化を図った。弘化四年(1847)には、幕府より房総警備を命じられた。また、初祖正之が編纂した三部書や輔養編の再刻も行った。
九代藩主 松平 容保(まつだいら かたもり)1835 〜 1893
松平容保公
美濃国高須藩主松平義建の六男。容敬の養子となり、嘉永五年(1852)養父死去により十八歳で藩主に就任した。弘化四年以来の房総警備は安政六年(1859)に免除され、蝦夷地開拓を命じられた。文久二年(1862)新設の京都守護職に任命された。京都では治安の維持をはかり、新撰組を配下において尊王攘夷に対処した。家茂の上洛を迎えるなど公武合体の動きを支えた。長州藩を中心とする尊攘派を京都から駆逐し孝明天皇から京都守護の功を賞された。家茂・孝明天皇が相次いで死去した後は、慶喜の相続・将軍就任に尽力する。大政奉還・王政復古の大号令の後、戊辰戦争が始まると、養子の喜徳に家督を譲り、会津若松へ帰って、降伏・開城を迎えた。
十代藩主 松平 喜徳(まつだいら のぶのり)1855 〜 1891
松平喜徳公
水戸徳川藩主徳川斉昭の十九男。1867年九代藩主容保の養子となる。1868年2月容保の隠居により家督を相続する。明治元年9月戊辰戦争敗北により家名を断絶され、容保と共に永禁固を命じられる。その後、容保との養子縁組を解消し、前松川藩知事松平頼元の養子となる。谷中霊園に葬られる。
十一代当主 松平 容大(まつだいら かたはる)1869 〜 1910(陸奥斗南藩主)
松平容大
松平容保の長男として生まれる。明治二年松平家再興を許され、青森県斗南藩三万石を与えられる。明治四年廃藩置県により斗南藩は斗南県となり知事職に任ぜられる。1906年貴族院議員に選ばれる。
十二代当主 松平 保男(まつだいら もりお)1878 〜 1944
松平保男
松平容保の七男。1925年海軍少佐を務める。1927年貴族院子爵議員となる。兄恒雄の長女節子(後に勢津子)と秩父宮雍仁親王の婚約の際、恒雄は平民籍であった為、爵位を継いでいた保男の養女の形をとり1928年(昭和3年)9月28日の婚儀の際には保男邸より送り出している。
十三代当主 松平 保定(まつだいら もりさだ)1926 〜 2011
松平保定
松平容保の孫。1945年財団法人会津保松会設立と共に名誉顧問として、会津松平家歴代藩主・当主の御遺徳を賛仰し、御薬園並びに院内御廟を維持管理する為に力を注いだ。平成元年昭和天皇崩御の際、大葬祭官を任じられる。