会津松平家について

 会津松平家は、保科正之公を初祖とし徳川親藩の御家門に位置づけられます。
 徳川親藩は、徳川家康の男系男子の子孫が始祖であり、将軍家の血筋を継ぐ藩として徳川姓を名乗る御三家、御三郷、松平姓の御連枝、御家門があります。
 保科正之公は、徳川二代将軍秀忠の四男に当たりますが庶子である事、そして幼年期を過ごした高遠・保科家を生涯の恩とし、松平姓・葵紋の上意を固辞し保科姓を通しますが、松平三代正容の時にこれを受け入れ御家門となります。
 正之公は補佐する兄、三代将軍家光の遺言により、まだ11才という幼少にある四代将軍家綱の後見役に任ぜられ将軍代行格として、直接幕政に携わりました。そして、これまでの武断政治から文治政治への政策転換をはじめ、玉川上水の開削や明暦の大火により多くを焼失した江戸の復興など、将軍家御膝元としてふさわしい大江戸再建にむけて、数々の都市政策を行いましたが、その為に徳川将軍家の御威光が軽んじられないよう、自らの業績を示す文書は全て消去し、あくまで家綱の後見に徹しました。
  これは、徳川宗家の血筋を守る為に、特別に任ぜられたもので、極めて異例のことでありました。このことが、その後の会津松平藩の命運を示す、家訓十五カ条の制定、会津藩教学の精神へとつながっていくのです。

会津松平家について

 会津藩教学の根底に流れる精神は、江戸前期を代表する朱子学者山崎あんさい、そして神道家きっかわこれたりの大きな影響によります。
徳川家康の孫で、二代将軍秀忠の子として出生した会津松平家藩祖保科正之公は、その精神を
きん十五ヵ条」に示します。
その中では、会津松平家の宗家である徳川将軍家には絶対の忠誠を尽くすものとし、第一条に「大君の義、いっしん大切に忠勤を存すべく、列国の例をもって自ら拠るべからず。 若しふたごころ懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」と挙げ、大君である徳川将軍家への忠誠心は絶対のもので他藩の考えを判断材料としてはならない。もしこの教えに背く心を抱いたなら、そのときは我が子孫ではないから家臣は主君に従ってはならないと明言いたしております。
 この正之公が唱えた儒教精神が歴代の当主に受け継がれ、後に九代藩主松平容保公の京都守護職の受容、そして戊辰戦争へとつながって行くのです。
正之公の教えは庶民学問所であるけいどうの創設、その後、五代藩主松平かたのぶ公の時に家老田中はるなかにより会津藩校日新館が開校され、そこに会津藩教学の精神が受け継がれ「会津日新館童子訓」の編纂並びに、それを基に「ならぬことは、ならぬものです」とした幼年向けの「什の掟」の制定となるのです。
この精神は現在も会津人の心に連綿と受け継がれております。
家訓十五ヵ条家訓十五ヵ条
什の掟家訓十五ヵ条